第43回かがり火市民祭りのお知らせ

第43回かがり火市民祭り開催 

◆8月1日土曜日 15:00~21:30

◆山梨県大月市最大の祭り 「まつり街道」と「まつり広場」

大月の夏を彩る「第43回かがり火市民祭り」が、今年も活気いっぱいに開催されます。夕暮れの街を照らす幻想的なかがり火の灯りのもと、地域の魅力が詰まった多彩な催しが勢ぞろいします。

今年は、笹子追分人形保存会による味わい深い人形劇が登場。伝統の技が息づく温かな舞台が、子どもから大人まで楽しませてくれます。 さらに、小山田信茂公顕彰会による迫力満点の甲冑隊パレードと演武も実施。武将の息吹を感じる勇壮な姿が、祭りの雰囲気を一層盛り上げます。

屋台や体験コーナー、ステージイベントなど、世代を超えて楽しめる企画も盛りだくさん。地元の方も、初めて訪れる方も、心温まる夏のひとときをぜひ会場でお楽しみください。

 

小山田信茂の新刊 ”5月4日発売”

文豪コロシアム  「―光と闇の跫―」

                                                      著者:夢酔等藤山

あらすじ

武田晴信は上田原で敗れたのちに武田の再起を志し、勝沼大善寺の勧進能を企画する。能奉行を任された小山田信有には気を許せぬ子がいた。その子の才覚を認めた武田信繁と山本勘助の推挙で、晴信は近習に取り立て小山田弥五郎の名を与える。弥五郎の出自には秘密があった。それゆえ父に疎まれていたことを、今わの際に語る信有。 弥五郎は武田家で頭角を表し、文武を学んでいく。 得度した晴信は信玄と号し、川中島の死闘に臨むが、この血戦はほろ苦い結果だけが残された。信繁も、勘助も討たれて死んだ。信繁から託された諱を、信玄は弥五郎に与える。小山田信茂の誕生だった。 漂白民(わたり)と武士の血に葛藤する信茂。上ナシの漂白民を従わせる織田信長。義信事件の余波で小山田弥三郎信有が罪状明白となったが、信茂は病死扱いでこれを匿う。信玄はこれについてみて見ぬふりをした。 信玄は西へと軍勢を動かすが、漂白民を采配する信長家臣〈弥右衛門の子〉の刺客により命を奪われる。後継者の勝頼と武田家御親類衆・譜代重臣の間には、不協和音が漂っていた。運命の長篠。武田家の失った人材は何物にも代えがたいものだった。小山田信茂の双肩に重い責務、それを支える筈の人材が次第に欠けていくなか、遂に織田の大軍が甲斐へと雪崩れ込んできた。

 

小山田信茂公・松姫様合同慰霊供養祭(第8回)の開催ご案内

小山田信茂公・松姫様合同慰霊祭のお知らせ

今からおよそ四百四十年前、甲斐の国は戦乱の渦中にあり、武田家・

小山田家の家臣や兵のみならず、地域に暮らす多くの人々が犠牲とな

りました。私たちは、その御霊を静かに偲び、安らかならんことを

祈るために、供養の場を設けてきました。

                 小山田信茂公顕彰会より

 

「岩殿山と小山田信茂の真実」

「岩殿山と小山田信茂の真実」

**武田氏滅亡と岩殿城の役割を解説**

山梨県大月市のシンボルである岩殿山は、標高634mの巨大な岩山です。その険しい地形を活かして築かれた岩殿城(岩殿山城)は、戦国時代に「東国随一の要害」と称され、武田氏の重要な防衛拠点として知られていました。軍学書『甲陽軍鑑』には武田三名城の一つとして記されています。

岩殿城は、武田氏の狼煙台から都留郡国衆である小山田氏が築城して発展したと考えられています。築城の正確な時期は不明ですが、城下の桂川に大永7(1527)年岩殿橋が架けられたことから、この年に城が完成したとする説があります。

山頂直下には「鏡岩」と呼ばれる高さ約150mの巨大な岩壁がそびえ立ち、まさに天然の要塞といえる景観を形成しています。この圧倒的な地形こそが、岩殿山が“要害”と呼ばれる所以です。

岩殿山は、甲斐国と武蔵・相模を結ぶ交通の要衝に位置し、甲斐の東口を守る最重要拠点として武田信虎の時代から重視されました。

  • 武蔵・相模を結ぶ交通の要衝に位置
  • 周囲を断崖に囲まれた攻めにくい地形
  • 山頂から広範囲を見渡せる優れた監視能力

          「岩殿山全景」

 

武田勝頼の最期と岩殿城の悲劇

──岩殿城と小山田信茂をめぐる通説と新説──

天正10(1582)年、織田・徳川連合軍による甲州征伐が始まり、武田家は滅亡の危機に追い込まれました。勝頼は新府城を放棄し、郡内(小山田領)の要害・岩殿城へ向かいます。しかし、勝頼はついに郡内へ入ることなく、天目山で自刃することになります。

武田勝頼が郡内へ入らなかった理由については、従来の史料(『甲陽軍鑑』など)では、岩殿城主・小山田信茂が笹子峠を封鎖し、勝頼の郡内入りを拒んだためとされてきました。しかし近年の研究の進展により、従来の裏切りとは異なる可能性が指摘されています。 

 

     「小山田信茂左兵衛尉」

新説:信茂は“裏切り者”ではなかった

近年の研究や新資料の発見により、通説とは異なる見方が浮上しています。

◇次男(靖千代・2歳)の病気回復を待っていた説

勝頼の次男が急病となり、その回復を待つため笹子峠西麓で待っていたという説です。

◇家臣・家族を逃がすための“時間稼ぎ”だった説

複数の史料から、武田家臣や婦女子が笹子峠を越えて武蔵方面へ落ち延びた記録が確認されています。

岩殿城には、天正9(1581)年に勝頼から整備および防備強化の指示が出されています。また、新府城で行われた武田家最後の軍議(3月3日)では、岩殿城を最終決戦の地とする方針のもと、武田家・小山田家の兵が最終戦に備えていたと考えられます。

これらの点から、岩殿城が最終防衛拠点として機能していた可能性は非常に高いといえます。

最終的に勝頼は天目山で自刃して武田家は滅亡し、信茂も織田信忠により処刑されますが、その背景には裏切り者というよりも、勝頼の命を受けて武田家臣や家族を逃がしながらも結果的に勝頼を救えず、その責任を一身に負わされたという構図 が見えてきます。

”岩殿山の歴史は“見直しの時代へ” 

岩殿山と小山田信茂をめぐる物語は、長らく裏切りのイメージで語られてきました。

しかし近年の研究に より、

  • 信茂は勝頼の命を受けて行動していた可能性
  • 家臣・家族の避難を優先した可能性
  • 次男の病状が判断に影響した可能性 など、

より複雑で人間的な背景が浮かび上がっています。

岩殿山を訪れるとき、近年の研究で見直されつつある“信茂の真意に迫る新たな歴史ドラマ”を思い浮かべると、山の景色がいっそう深く感じられると思います。

岩殿城は、その後、武田氏滅亡とともに徳川の支配下に移り、やがて軍事的役割を失って静かに廃城となりました。

しかし、近年の研究によってその歴史的価値は再び注目されています。発掘調査で見つかった茶器の破片は、岩殿城が単なる軍事拠点ではなく、武将たちが文化を育んだ場でもあったことを示しています。 小山田信茂の再評価とともに、岩殿城もまた“見直されるべき城”として新たな光を浴びつつあります。

現在は山梨県指定史跡「岩殿城跡」として整備され、山頂からは富士山や大月の街並みを望む絶景スポットとて人気を集めています。

      「令和8年新春版御城印」


 

山梨国宝:大善寺、清白寺の初詣旅

― 大善寺の薬師堂と厨子、そして清白寺の仏殿へ ―

一年のはじまりは、心がすっと整う場所へ行きたくなるもの。

今年は少し足を伸ばして、山梨県の国宝建築を巡る“初詣旅”に出かけました。

澄んだ冬空の下、山里に佇む古刹を訪ねる元日は、なんとも贅沢な時間でした。

◆ 甲斐大善寺 

朝の冷たい空気を吸い込みながら向かったのは、甲州市の 大善寺。 実はこの寺の歴史はとても古く、開創は養老2年(718)。 行基菩薩が日川渓谷で霊夢を受け、手に葡萄を持つ薬師如来を中心とした薬師三尊像を刻んで安置したことに始まると伝わります。

奈良時代には聖武天皇から勅額と寺号を賜り、五十二堂三千坊を誇るほどの隆盛を極めました。 その後、堂宇は焼失と再建を繰り返しながら、時代ごとの有力者や民衆の信仰に支えられて歴史を重ねてきました。

● 国宝・薬師堂

現在の薬師堂は、昭和29年(1954)の大修理で創建当時の姿に復されたもの。 翌年には厨子とともに国宝に指定されました。 冬の光に照らされた木肌は、長い歴史を静かに語りかけてくるようです。正月三が日は拝観料と駐車代は無料です。

● 国宝・薬師堂の厨子

堂内に安置される厨子もまた国宝。 精巧な造りと気品ある佇まいは、薬師信仰の厚さを今に伝えています。 元日の厳かな空気の中で手を合わせると、自然と心が整っていきました。

◆ 清白寺 (せいはくじ)

次に向かったのは、山梨市の 清白寺。

足利尊氏の開基とされ、正慶2年(1333)創立の由緒ある禅寺です。

● 国宝・仏殿

南北朝時代の禅宗様式を今に伝える仏殿は、凛とした静けさに満ちています。 元日の澄んだ空気の中で見るその姿は、まるで時間が止まったかのよう。 ただ立っているだけで、心がすっと澄んでいくのを感じました。

◆ 元日の国宝めぐりを終えて

大善寺の力強い祈りの歴史と、清白寺の研ぎ澄まされた静寂。 どちらも元日という特別な日に訪れることで、建物が持つ“深い時間”に触れられた気がします。

新しい一年のはじまりに、山梨の国宝たちに心を整えてもらう旅。 これは毎年の恒例にしたくなるほどの、豊かな初詣になりました。