小山田道路を造ったのは甲斐の小山田備中守のご子孫だった。

イメージ 1出羽国山形県)の現地調査で判明したことをお知らせします。

現地の市立図書館の関係史料を閲覧したところ、現在の15代ご当主がご先祖について書いた文章を見つけました。(5月1日続報)

 
原文
「小山田家の先祖は、甲斐の武田信虎、信玄(晴信)二代に仕えて勇名を馳せた武将小山田備中守昌辰である。昌辰には、備中守昌行、大学昌貞そして弾正の三人の男子がいた。そのうち昌行、昌貞は、信玄の五男仁科盛信が城主の信州伊那高遠城に籠城して、織田の大軍と戦い、城主以下全員壮烈な討死した。武田信玄の跡継ぎ勝頼は、高遠城落城の天正十(一五八二))年三月二日からわずか九日後に、韮崎新府城を出て田野景徳院に至り、夫人、家族、主要家臣と共に自刃、武田家は滅亡した。これを確かめた弾正は、止むなく親戚である羽州天童城家老布施但馬を頼って逃れ、後に里見東根城主の家臣になった。天正十二(一九八四)年に、天童城は山形城最上義光の攻撃を受け落城した。弾正は間もなく自ら望んで武家門ご免となり、農民として猪野沢に居住し田畑の開墾に当っていた。最上家領地内とかく不穏がちとなり、義光は弾正に村長兼郷中取締役を命じ、地域の平穏、発展をはかった。弾正はこれに当り任を全うした。二代目弾正は、藩主鳥居左京亮から寛永元(一六二四)年に大庄屋を命じられ、三代目弾正は、藩主松平大和守直基に正保三(一六四六)年、近隣九ヶ村の大庄屋を命じられて名を小山田理兵衛と改め、小山田理兵衛家は寛保二(一七四二)年、東根領が大庄屋制を廃止するまでの五代九十七年間これが続いた。このあと、名称は変わったが名主役として幕末まで代々一貫して勤め、地域の発展に貢献した。
明治入っても戸長や村長を仰せ付かった。」
こうして、400年以上前の天正時代に一人だったり、複数人だったりして甲斐国から小山田一族や武田一族が逃れて、その場その場で活躍していることが分かりほっとした気持ちです。また、痕跡が見つかったら訪問しようと考えております。